昨日、金融制度の1つである株式制度に関して「周回遅れ」だとか、いろいろと書いたが、日本の金融制度は全体として欧米標準からそんなに引き離されているわけでない。制度そのものの問題は多くなく、制度の使い方が悪い、様々な関係者の能力の問題とも言えよう。
それに対して、昨年夏以降に熱くなり、今となり煮えたぎっている農業は、制度自身の問題だらけ、ネコ灰だらけである。僕が子供の頃の冬、ネコはまだ火の温もりの残る竈の中で寝ることが多かったため、朝には灰だらけになっていた。そんな古い時代のままの農業制度が日本で化石として生き残っている。
農水省が主張するように、安全保障の観点から主食としての米の自給自足について、どのように考えればいいのか。米の自給自足に議論の余地がないわけではないが、とりあえずは必要だと認めておこう。というのも、米の自給自足が可能だとして、それに越したことはない上に、農業には食料という観点以外において、たとえば環境などの役割もある。
しかし、である。高齢化、人口減少の日本において、終戦直後のままの農業制度が米の自給自足に役立つはずもない。
たとえば、日本の零細な農業にグローバルな競争力を望むのは、馬が人間の言葉を喋るのを(ミスター・エドの現実化を)望むようなものだ。大規模農業の実現のための政策を、農地の所有権と賃貸借権を含め、検討し、実現するのが政府としての本来の役割ではないのか。高い関税を課されても、カリフォルニア米を輸入するほうが安いという、日本の今の農政を直視し、農業制度を見直すべきである。
もちろん、大規模化によって価格面でのグローバルな競争力が完全に得られるとは思っていない。そこは質の競争力でカバーするしかないだろう。とはいえ質の競争力も、零細な農業に多くを期待できない。AIなどを活用した質の管理にも、大規模化が必須となる。
もう1つの事例は、農協(農業協同組合)の制度である。そもそも農協の役割は、その名が表すように零細な農家に対する技術的、経営的、資金的な指導にあった。1947年、戦後に発足した。その農協も時代遅れになってはいないのか。零細な農業が成り立たなくなったとすれば、農協の存在意義も変わってしまう。農業経営が大規模を目指すのであれば、農協は不要となる。
その農協には。2022年の農水省の調査によると17.2万人が働き、そのうち役員が1.5万人とある。一方、日本の農業専業者数は136.3万人(2020年、農水省調べ)であり、23年には116.4万人だと推計されるらしい。この農協職員数と農業専業者数の関係をどのように見るのか。「えらいアンバランスやん」「農協ってパラサイトやん」「それもパラサイト的に生きている割合が超多すぎる」と見えてしまう。
結局のところ、日本の農協は既得権益化していないのか。不要な組織ではないのか。農業を大規模化するとして、農協が農業を直接行うべきではないのか。灰だらけのネコがいなくなった今、農協も、パラサイトではない新しい姿を見つけるべきだろう。それを促進するのが農水省のもう1つの重要な役割である。
2025/04/25