今日はお盆である。両親の墓に何をするわけでもない。お盆に墓参りの必要は何もない。昨晩の夢の中に姿を見せたような気もするが、定かでない。ないない尽くしながら、父親から聞いたインパール作戦の状況だけははっきりと頭に刻み込まれている。
父親は、どちらかと言えば天皇崇拝派だったものの、戦争の犠牲者だとの思いも強かった。子供の頃、この相反する父親のスタンスを理解できなかった。今となっては、前者は当時の教育のせいなのだろう、後者は実体験からだろうと理解しているのだが。
どういう理由で日本は中国やアメリカを相手に戦争をしたのか。客観的に国力を評価できなかったに尽きる。「神国である」ことを信じ、かつ明治維新から一気に列強と呼ばれるまでにのし上がった当時の日本が、欧米と同列に扱われなかったため、それならと力づくで隣国を支配しようとしたのだろう。アジアでの戦争に突入した後も、軍部のトップが戦争の最前線を体験していなかったからだろう。
要するにトップのプライドの高さと現場感覚のなさが、沖縄、広島、長崎の悲劇につながった。トップは机上の空論に基づいて行動してはいけない。国民は、その机上の空論に踊らされてはいけない。しっかりと現実を見つめる必要がある。
敗戦が濃厚になっても、自身の責任を考えると、トップは敗戦を認められない。日本の美徳とされた切腹を実行できなかったとも言える。軍人が、もはやサラリーマン化していたのだろう。
すべてが同じである。主観を排除し、客観的に考えるべきである。もちろん100%客観的にはなれない。しかし、ある決断をしようとする前に、もう一度「本当にそうなのか」、「別の角度から見ればどうなのか」と問う冷静さが必要だろう。その上で決断したからには、決断の結果も冷静に評価しなければならない。間違うことも当然にあるのだから。
父親は山形県庄内町余目出身の佐藤幸徳中将を尊敬していた。インパール作戦で司令官の命に背き、佐藤中将(師団長)は兵を撤退させた。「抗命」事件として少し有名である。父親(当時は中隊長?だったとか)の体験からすると、インパール作戦は当初から兵器や食料などの物資が不足していて、無理難題だったとか。
戦後、父親は余目を訪問していた。訪問した理由は知らないが、1985年、余目に佐藤中将の追慕碑が建ったので、その除幕に参加した可能性がある。
毀誉褒貶の多い佐藤中将ではあるが、戦争に対して、日本でも強気派ばかりではなかったことだけは確かだろう。上層部になればなるだけ、進む方向に反対する意見を冷静に聞く必要がある。強い反対意見があるのなら、トップが現場を訪れないといけない。戦争だけではなく、経営も同じである。
2025/08/15