
18日、川北知子叔母さんが92歳1ヶ月で亡くなったとの連絡があった。2014年5月に故人となった川北憲央(戸籍では憲夫)叔父さんの妻である。旧姓は米田(こめだ)だった。叔父さんが亡くなった年を確認し、あれから11年も経ったのかと思う。
川北憲夫叔父さんは僕の父の末弟である。だから知子叔母さんは義理の叔母さんなのだが、父親の叔母さんの(多分)孫だから、血縁でもある。
故人の願いで、葬儀が生まれ故郷の橿原市坊城で執り行われた。告別式に参列したところ、同じ坊城で行われたはずの叔父さんの式とは何か異なっていた。ブログで確認すると、叔父さんの時には告別式ではなく通夜に出席していた。当時のスケジュール表でも確認した。
坊城の家には何回も遊びに行った。父親の叔母さん(フクさん)が坊城に嫁いでいたうえに、父親は叔母さんと親しかった。だからフク叔母さん(僕にとってはいわばお祖母さん)が郡山に時々遊びに来た。
ある時、「一度、坊城に遊びに来るか」と言われたのだろう、他の家が大好きな僕は「うん」と答えたに違いなく、夏休みに毎年ほど行った時期がある。小学生だったと思う。夏休みには母親の実家にも遊びに行く必要(?)があり、忙しかった。どう調整したのか、今となっては不明だが、夏休みの初めとお盆とに分けたのかもしれない。
とはいえ坊城には同じ年齢の子供が身近にいなかった。17歳近く齢が違うとはいえ、知子叔母さんが一番近かった。多分、2泊くらいして帰ったのだと思う。ちなみに母親の実家には、近くに少し年齢が上の従兄弟がいたこともあり、1週間程度いた。前にも書いた怖い田舎のトイレさえなければ、もっといたかもしれない。
そんな知子叔母さんについて覚えているのは、坊城の家の裏に深い森の神社があり、そこで 玉虫を捕まえたことである。それを一緒にいた叔母さんに見せたところ、確か「子供にも教えたげてね」と言われた。
その時、どこまで思いが至ったのかは覚えていないが、「叔母さんは結婚するのや」程度はうすうす感じただろう。「うん」と答えたとは思う。
叔母さんが憲夫叔父さんといつ結婚したのかは記憶にないものの、玉虫事件後、すぐだったようだ。その後の夏休み、坊城の家に遊びに行く機会がなくなった。
とはいえ叔母さん夫婦が僕の父親の仕事を手伝うようになったので、郡山の実家で会う機会が多くなった。叔母さんの葬儀の喪主となった長女の美奈子ちゃんの子供の頃は知っている。その妹の希代子ちゃんはあまり記憶に残っていないものの、少しは知っている。二人とも「ちゃん」の年齢では当然ないのだが、そう呼ぶしか思いつかない。
僕が結婚した時、父親は仕事をほぼ止め、叔母さん夫婦は坊城に住んでいたはずで、カミさんと一緒に結婚の挨拶に行った。女に対して多くは悪口しか言わないそのカミさんが、「あの綺麗なひと」と、知子叔母さんが話題に出る度に言う。
叔母さんとの点と点と点の思い出を噛みしめつつ、ご冥福をお祈りする。
2025/12/24