川北英隆のブログ

別れの記憶

坊城での知子叔母さんの告別式は忘れないだろう。これで(長男だった)父方の叔父、叔母は義理を含めてすべて、仏教徒しかいないこともあり、極楽浄土に移った。今回、坊城から見えた金剛・葛城・二上、音羽山の並び、高取山は須弥山のようでもあった。
山々はいつも変わらぬ姿で住人を見てくれている。秩父の武甲山や近江の伊吹山のような例が奈良盆地にないこともある。坊城から近い飛鳥の山々の姿は、1500年の時の流れを経て変わってきたはずだが、それでも遅々としたものでしかない。
親しい人達の最後の言葉や一言は忘れ難い。メールでのやり取りを残している例(福間鋼治氏)、直前の電話での言葉が記憶に残っている例(北原秋一氏)、間接的だが別れの情景を伝えてもらった例(母親を見届けた妹の言葉)がある。
父親の場合、退院できるのでとの病院からの連絡を受け、病室を訪れた。だが、その面会が最後となった。数日後、学会での発表時に訃報が届いた。当時のヤブ病院が貴重な面会の機会を作ってくれたわけだから、ある意味で感謝している。
僕の2人の祖父の場合、両者とも会った翌日だったか、すぐに亡くなった。僕は死を告げる役割を果たしたのか、それとも極楽浄土を伝える役割だったのか。
そういえば飼っていた鳥、ブンチョウとカナリアのあの世行きを確認したのも僕だった。自分たちで飼った唯一の猫、ロッキーの場合、滅多にないことなのに、その朝に頭を撫でて出勤した。その日の昼だったか、カミさんから緊急の電話があった。会社を早退し、キリマンジャロ旅行の申込みに行く予定の日だった。その申し込みを済ませ、家に早く帰った。そうそう、大学時代の初代の飼い犬の場合、当時まだいた犬獲りに連れ去られたのだが、その瞬間の鳴き声を聞いた。
父親の葬儀での印象は乏しいが、母親の場合、桜の季節だったのを思い出す。
生まれて最初に葬儀に参列したのは小学校低学年の時である。幼稚園前に知っていた少し知恵遅れ(今では差別用語か)の同級生が電車に轢かれて亡くなった。
その他、いろいろとあるのだが、親戚の場合、僕が東京勤務だったこともあり、電報程度で済ませたのがほとんど(すべて?)だった。今では申し訳ないことをしたと思っている。家に遊びに行って、世話をかけた叔父さんや叔母さんが何人もいたのに。
書き始めれば、水底からの泡のように、次々と浮かんでくる。それだけ長く生きた証なのか。切りがないので、堆積した記憶を探るのはこの辺りで打ち止めにしておく。

2025/12/25


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