
考えてみれば多様性が好きだったし、今でも好きだ。食べ物もそうである。いろんなものを食べたい。山ももちろんそうで、きわめて素晴らしい山があったとしても、もっと他にないかと探してしまう。別の表現をすれば、個性があるから何事も素晴らしい。
世界を見渡せば、多様性が乏しくなってきている。むしろ多様性を殺す動きが強い。人間社会では、権力や権威が没個性を求めている。一方で自然界では周知のように、人間の経済活動によって、動植物を含め多様性が駆逐されつつある。
人間社会の代表として、まず欧州がそうである。フランスやドイツは戦略として、経済力を強めるためにEUという規格を作り、拡大してきた。同じことだが、会計基準や二酸化炭素対応に統一基準を制定し、それを世界標準にしようとしている。
アメリカはトランプが力の誇示を強めた。世界をもう一度アメリカに靡かせよう、アメリカの支配下に置こうとの動きであるのだが、それはまたアメリカの余裕になさの裏返しでもある。
中国やロシアは最高権力者の言動が国内のすべてである。同時に自国の影響力を広げるため、活発に活動している。
日本はといえば、国内でのルール作りに忙しい。たとえば僕自身が常に観察している証券市場において、コードを示し、その精神に基づいて企業経営を行うように指導している。
コードとは法律ではなく、指針であり、塗り絵のようなものだ。どんな色を塗るのかは勝手なものの、その手本に従ったところでピカソ的、ルソー的な絵が完成するわけでない。幼稚園児として一応合格点の作品になるにすぎず、そこに創意工夫はない。
人間社会における多様性の反意語は均一もしくは没個性だろう。多様を追求すればバラバラ、質の差が激しいことになる。均一を目指せば、質はある程度保証されるものの、突出して優れたものが出てこない。要するに小者化する。
日本企業を見ていて残念なのは、世界をリードできる企業が消失したことである。ヨーロッパにおいても世界を牽引する企業が少なくなった。中国は今のところ、かつての日本と同様、ヒトマネ的である。この点、アメリカ企業が世界を牽引している。
アメリカ企業の特色は「法律やルールでダメと書かれたこと以外は何でもやる」ことにある。奇想天外なことであっても、それに挑む企業がある。だから失敗は多いが、革新も生まれる。アメリカ人と親しくないので妥当でないかもしれないが、「千三つ」的かもしれない。
しかし「千三つ」でいいのではないか。成功率を高めようとすれば、誰もが「そやな」と感じることしかできない。誰もが「せやな」と感じるとは没個性であり、サラリーマン的である。
飛躍しようとすれば、没個性に足を踏み込み、多様性を求めることしかない。そんな企業が日本から出現することを願う、午年を控えた大晦日である。
2025/12/31